2017/07/11

親子の姿

私の(おりがみ個人史?)

 ある日、先輩宮下温(あつし)さんが言いました。『あなたは鳥やどうぶつの作品を、よく(親子の姿)として発表していますが、そんな作例を見ていると、親から大事にされているからだと思いますが、そうでしょう!』

 世田谷区の豪徳寺にお住まいの宮下さんは、同じ世田谷区の代沢(利用駅は下北沢)に実家の在った私からは、歩いて30分くらいの距離に居られ、…でもお歳は、実に私の母と同じという方!ですが、おりがみでは、同志のお付き合いをさせていただいたことではあります。

 有名な製菓会社の樺太支店長を勤められたと伺いましたが、個人的なご趣味では、おりがみの他に、フレンチホルンの演奏と伺い、…『半音階のドレミファを正確に発声することが出来るのです。』と、それがご自慢でした。
 また『ソニーの(ウォークマン)っていうのはすごいですね!頭の真ん中で音が響くんですよ!』こんな話を伺い、音楽好きの私も、少し後にウォークマンを買いました。確かに宮下さんの言われる通り、音は頭の真ん中にずんずんと響きました。…いや閑話休題。

 古典資料「かやら草」のこと、明治や大正時代の(伝承作例)のこと、また吉澤章氏のこと、河合豊彰氏のこと、そしてそのお弟子さん方の活動の様子など、いろいろな情報を教えてくださいました。そして、やがてそのお弟子さんたち何人かの方たちの、独立行動の場に紹介されました。そこから私も「創作おりがみグループ’67」という、初の組織活動に参加して行くことになるのですが、そのきっかけを作ってくれたのが宮下氏でした。

 そのグループのメンバーのお一人、(ユニットおりがみ)の先駆けとなる「カラー・ボックス」の作者、薗部光伸さんが愛情を込めて呼んでいた『不思議な老人』とのネーミングがぴったりのお方でした。そしてその集まりには、宮下さんと同年代の高濱利惠さんも居られ、…まあ、このリーダー的なお二人が、そこに良き絆(きずな)的な雰囲気を作ってくれたのだと思っています。

 そしてそんな不思議な老人、宮下さんとの最初の出会いは、これまた世田谷の実家のすぐ近くに勤務会社が在ったことで知り会えた、不思議なご縁の中西康夫氏がある日のこと『内山興正師が、京都から、近く東京田無のご実家に帰られるとの情報を得ましたので、君を連れて行ってあげよう。』とて連れられて内山先生のご実家に伺った折、…そこに宮下さんも訪問されておられて、知り会えたのです。なおこの中西氏は、私の兄と同じ歳の方です。(この場には、もうお一人、貝のスペシャリスト、池尻博之氏が居られました。
この方はマルチ人間で、きわめて多くの、私には未知の分野の話を聞かせてくださり、私の目を開かせてくださいました。そして私には、プレゼントしていただいた美しい貝のコレクションのいくつかが残されたことです。)

 さて話は個人の思い出に傾いてしまいましたが、…『親から大事にされているからでしょう」と、そんな宮下さんのご指摘に加え、4人兄弟での私は、姉・兄・姉・私の上3人が7、5、3との2歳違いなのに、末っ子の私だけ9歳も離れていましたから、3人の兄姉からも両親からも大いに可愛がられたのです。まあ宮下さんのご指摘通りかどうかはともかくも、私は実にしばしば、どうぶつや鳥を(親子の情景)として作りました。
 だって、親子の表情ほど魅力的なテーマはありませんから。かくていずれそんな親子の情景のあれこれを紹介するつもりですが、今回は一つの例を、その出会いのエピソードと共にご紹介します。

 それは1991年のこと、私の2度目の海外経験のとき、その地、ブラジルのサンパウロで、私が希望した「動物園を見たい!」を聞き入れてくださり、やさしく、そしてしっかりと案内をしてくださったのが、素敵な金ヶ江真里さんです。そしてそこで目にしたのが、背中にこどもを乗せて歩く「オオアリクイ」の姿でした!

 帰国して少し後にくふうしたのが、その「オオアリクイの親子」でした。写真がそれです。この生物の毛の色などは、単純なものではありませんでしたものの、それはパンダのように際立った個性とも思われませんでしたので、おりがみでは、全体としての表情表現で良いとの判断からくふうしたものです。

オオアリクイの親子

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