2017/07/19

またも訂正。そして個人史つづき

タイムカプセルは、既に開封されていた!

 私の処女出版の「母と子のおりがみの本」が、EXPO’70の松下館に展示された後に、5000年後へのタイムカプセルに収蔵される!ーとの自慢話をし、2個埋設されたものの一つは、50年後に状況確認のために開封されるので、生きていたら見に行きたい、とは(出版履歴…)の項で言ったことです。
 と、息子がインターネットでこのことを調べたところ、なんと!ーそれは2000年に既に開封されていた!ーそんな事実を知りました。
 どうやら私は30年後を、50年後と錯覚していたらしい。そしてこの最初の開封以後は(100年ごと!の開封)とのこと。なんだ、これでは私はもちろん、息子だって見られない!

 さて、こんな事実を知ったところで、私はこの「母と子のおりがみの本」を書いていた頃のことをはっきりと思い出しました。


私のおりがみ個人史 パート2!

 私は大学を卒業すると、ある製薬会社の宣伝課に就職しました。薬局へのダイレクトメールの文案を考えるのが最初の仕事で、採用されたそれはすぐに実際に郵送されました。
 官製ハガキに(謄写印刷)という、もっとも廉価なスタイルのものですが、入社してすぐの作業が、いきなり全国の薬局に郵送される!ーそれは実に嬉しいことでした。
 全社員の前での新入社員挨拶で、率直にそんな嬉しさのことを言いました。そしてそれは、社長にも記憶されていた!とは、辞めるとき聞かされました。

 また、電車の車内吊り(水虫薬)の宣伝ポスターの制作で、『あんたの短い足がポスターの枠に収まるので、モデルとしてぴったりだ』なんて、宣伝課のカメラマンに言われ、会社の応接間にてモデルになりました。もちろんズボンに靴下を履いた足と手のモデルで顔など映りません。実はこのカメラマン、学科が違いますが同じ大学の先輩でした。
 通勤の電車の中で、このポスターを目にしたときには、「皆さん、これ私の足と手ですよ!」なんて言いたくなった!?

 そして次に、「おりがみを使って、風邪薬のコマーシャル動画を作りたい。」との企画書を提出したところ採用され、それが実際に制作され、そして放映されました。絵コンテを描き、そして(コマ撮り用)のおりがみも、(仕事として)折りました。
 10日程の、早朝から深夜までのスタジオにての撮影作業は、心の底から嬉しく楽しいものでした。DVDは言うまでもなくビデオも無い時代とて、16mmのフイルムでのモノクロ撮影でしたが、おりがみ動画などほとんど無かった頃ですから、大いに鼻を高くする出来でした。が、そこで宣伝したのが(アンプルに入れた液体風邪薬)で、確か1ヶ月くらい後に、厚生省より、アンプル入りの飲用薬は全面的に(販売禁止)との通達が出され、短い放映期間であったのは残念でした。ガラスの粉末が混入する恐れ、が禁止の理由。

 とまあ、とにかく仕事は楽しくてなりませんでした。しかし、朝は(朝星)、夜は(夜星)を仰いでの毎日の勤務生活は、ー今でならブラック企業という類ですが、ー私には仕事は楽しかった。ーでも、肉体的にはやはりしんどく、すごく痩せました。製薬会社ですから栄養剤は無料でもらえ、沢山飲みましたけれど、過労に効きはしません。ーと、そんなところに、おりがみの本の話が来たのです。

 実はこの就職前、学生時代の最後の思い出として、4年生のときアルバイトで金を得、それで日比谷公園内の都営画廊という、他の画廊と比べると割安なところで、友人、知人に大いに助けてもらっておりがみの個展を開くこととし、その案内状を、電話帳で調べた出版社などに送っていたことの効果でした。(実はこの画廊での個展との行為は、河合豊彰氏の最初の追っかけ行為でした。河合さんという方は、その頃人気の演歌歌手に容貌が似ておられ、話術は実にみごとで、とても魅力的なキャラクターの方でしたから、追っかけたのですね。
 そして嬉しいことに可愛がっても、もらえました。そして元は吉澤章氏のお弟子さんでしたから、吉澤氏のこともいろいろ教えてもらいました。おりがみって、ただ楽しいだけの世界ではないらしい?と、そんな知識も与えられたことでした。いいえ、河合さんから伺う前に、初の個展を開く案内状を吉澤氏に送ったところから、この世界の難しさをしっかりと教えられていたものです!?)
 話が寄り道し過ぎましたね。戻ります。

 ともあれそんな自己宣伝の効果としての出版依頼だったようです。(内山興正師との関連のことは、後で知ったことです。)

 しかし、過労状態の中でのこともあり、躊躇の思いはありましたものの、チャンスは逃がしたくありませんで、引き受けました。深夜12時から2時3時まで図版を描き、7時には起きて出社するという生活を続けたのです。
 1ヶ月ほどの後、ともかく1書のまとめが出来て、出版されました。図面の描き方などそれまでまったく知りませんでしたが、どこかで漫画家の方々は黒インクとつけペンで、白いケント紙に描いているのを知っていましたから、それと同じようにして図版を作りました。でも出来た本を見ると、眠気をこらえて描いたことが歴然と出ちゃっていました。

 ともかくも、こんな二足のわらじが原因でさらにやせ細ってしまい、結局1年で退社する決心をせざるを得なくなりました。満員すし詰めの通勤電車にも耐えられなくなっていたこともあります。
 しかし、辞めたところで、次に何をやるか?の当てなどありません。おりがみを生活の手段にするなど、この頃まったく考えにありませんでした。河合豊彰さんの追っかけは、おりがみ好きがここにも居ますよ!ーそれさえ知ってもらえれば充分のことで、河合さんのようにこれを職業とするような考えはまったくありませんでした。

 だから製薬会社を辞めて2年ほどは、今で言う(フリーター)のような生活で、実にいろいろな仕事をしました。一方、1年少し後、盛光社から新たに一書の依頼が入り、今度は落ち着いて作図等出来ました。(「思い出のおりがみ100選」が書名です。)
 そしてまた、その半年程後、久保書店という出版社からの依頼があり、「折り紙を楽しむ本」を書きました。ここで初めて(印税契約)がしてもらえ、おぼろげながら、もしかするとおりがみの著述で生活して行けるかな、とそんな思いがちらりと頭を過ぎりましたが、まだ確たる現実感はありませんでした。(この印税契約というもの、ちゃんと印紙が発行部数の通りに渡され、1枚1枚に押印という形式でしたよ! なお、この会社の社長さんは、洞窟探検の趣味をお持ちで、実に男の魅力に溢れた方でした。)

 ところで私の初の個展から、3冊の本作りの様子を、じっと暖かく見つめてくださっておられた宮下温氏から、『英文のおりがみ解説書を出してほしいと希望している会社があるが、チャレンジしてみませんか?』と、この上なく嬉しいお話をいただき、そして紹介されたのが日貿出版社です。そして何人もの編集者を前にして、おりがみの理想論などを夢中で語らせてもらって、…まあその結果が、「Creative Origami」という、ずっしりと重い初の英文書と成って実現されましたが、それが1968年の正月でした。

 そしてここから、「おりがみの(著述)でやっていけるかも知れないぞ?」という気になったわけです。そして紆余曲折はありましたものの、今に至るという次第。思うに、生まれた時代のタイミングに恵まれたと言うことでしょうかね。
 いや、自慢ばかりの個人史、失礼しました。
 

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