2019/10/13

一番最初に出会ったおりがみは?

それは「コップ」です!

 私の生まれは長野県の岡谷市です。そして生家は、塩尻峠(しおじりとうげ)の近くでした。
 そこに、何代か続く鉄工所が在りました。そこで4人兄姉の末っ子、として生まれました。敷地内に住まいと工場が在り、いくつもの機械があり、それを扱う職人さんも何人も居ました。幼児の私の面倒を見てくれるお手伝いさんも居りました。まあ、中流家庭と言ったらいいでしょうか。
 そして、私の父はそう!その鉄工所の親方でした。

 しかし父は、そんな職業があまり好きではなかったようです。お得意さんから渡された図面に従って機械で(部品)を作ることなどより、(個性を持った手作り)をしたかったのではないだろうか、と今の私は思っています。(現実はそんなに単純じゃないでしょうがね。しかし私はいつもファンタジーを夢見ているんです。)

 そこで、東京に来てからは(彫金師)の道に進み、晩年まで続けました。銅板に(浮世絵)を彫金するという父ならではのアイデアを得たのでした。
 それまでの彫金は(唐草模様)など、それ自体が作品ではなく、他の物品の装飾物の製品が主だったのです。
 私は父の依頼で、銅板に浮世絵をトレースしました。父に器用さを認められ嬉しかったものです。
「彫金の浮世絵」は、最初の頃は、結構(ボツ)も出していました。でもそのうち、いいなあ!と思えるものが出来て来ました。
 一番上の姉がセールス上手で、父の彫金浮世絵を大いに売ってくれていたようです。なお私も教わって銅板を(たがね)で削ってみましたが、まったく素質はないことでした。
何度やっても、たがねは深く食い込んで行って、結局(穴)を開けてしまう!

 さて、かの(朝鮮戦争)が勃発して、(金へん)の仕事が大盛況となる直前に、工場も家も敷地も売って、東京に出て来ました。もしも、父がもう1年でも頑張っていたとしたら、この隣国の戦争の世情変化から、もしかしたら長野に留まっていたかも知れません。そうなっていたら、…(オリガミアン笠原)は居ない? オー、マイ、デスティニイ!

 一方母は、お隣の諏訪市の生まれで、なんと(10人兄姉!)の末っ子でした。この母方も同じ(笠原)姓でした。郵便局の局長の娘でした。
 さすが10人というのは大変で、八人目で『もうヨシ(伯母さん)。しかし九人目が!で、ヨシノブ(伯父さん)』。
 けれど10人となったので、『もう艶やかな子になれ!とて、ツヤとなったのよ。』母から聞かされた話です。

 さてこのツヤさん、なかなかお茶目で才気の人で、…諏訪高等女学校では作家の平林たい子と同級生で、早熟な彼女は、卒業を待たずに愛人を作り、一緒に成るために出奔するが、その手助けをしたのがツヤさんだった!(平林たい子は、この女学校開校以来の才女だったとか。)
 で後年、テレビの(人に歴史あり)という番組で、平林たい子が取り上げられたとき、わが母も上記のエピソードから出演した。(母のお使いで、私は確か池袋の近くだった?たい子さんの家へ届け物をし、たい子さんからお駄賃をいただいた記憶があります。)
(何代も続いた鉄工場を売り、東京に行こうと父を説得したのは母らしく、同級生の平林たい子の生き方などに影響されたのかも知れませんね。)

 いや、前置きが長くなってしまいましたが、要するに、我が家は当時は中流家庭で、しかもちょっとフツウとは違う家柄で、そして(自由)という精神を持つ両親だった、と言っていいのかも知れません。
 で、敗戦後のあわただしい世相の中で、私を幼稚園に行かせてくれるというのは、そう一般的なことではなかったと思います。そして、塩尻峠に在った幼稚園で、私は初めて(おりがみ)と出会います。具体的に言いますと、伝承作品「コップ」でした。

 幼稚園時代のことを覚えている?! それは確かにフツウのことではないでしょう。でも私がそれをはっきりと覚えているのは、実はきわめて印象深い(食べ物)と繋がっているからなんです。

 敗戦後で、食べ物の乏しい時代です。でもこどもには体を作ってやらねばならない! 幼稚園の(お3時?!)のときだったと思います。皆におりがみが1枚づつ配られましてそして「コップ」の折り方を教わって折りました。
 と、先生はそのコップの中に、焦げ茶色の(黒豆)ほどの大きさの物体を、いくつか入れてくれました。「おいしい!」と思って食べ、この(おいしい食べ物)からの関連で、この最初のおりがみ「コップ」をしっかりと覚えたのでした。
現代の「コップ」

 さてこのおいしい物体を、母のためにすこし残して持って帰り「お母さんおいしいよ」とすすめました。が、今でも覚えています。何か困った表情の母は『おいしいなら、全部おまえがおあがり。』
 ものが乏しい中、こどもへのタンパク質の食べ物とて、先生方の思案でしょう。このあたりに多い養蚕所の、絹糸を採った後の(さなぎ)を炒ったものでした。

 とまれ、才気の人で、いつも微笑んでいたのに、このときの困ったような母の顔と、おいしいおやつの入れ物「コップ」のことを大人になっても忘れなかったわけです。

 ところで10数年前になるでしょうか、飯田市の竹内恵子さんのお声がかりにて、信州おりがみ交流会「りんどう飯田」へ伺った折の夜、飲み屋さんに連れていってもらったときです。ああ!このとき、お通しに(さなぎの炒ったやつ!)が出ました。

 …が、幼い頃の無垢な味覚はもう失われていたようです。でも信州人の私は、東京に移って青少年になってから、(いなご=grasshopper)や(蜂の子=babybee)はおいしくいただきました。ただなんですか、(蜂の子→缶詰になっている)は、今やすごい高級品だと聞いています。

 なお竹内恵子さん、私と同じく千野利雄(ちの としお)先生の指導を受けた得難い同志です。そして、飯田市は(水引)の生産地として知られ、恵子さんも「水引工芸」には精通しておられます。
 私が一時熱中した(織り紙=Tape Weaving)の、(お手本)とも考えたのがこの「水引造形」ですから、いよいよ得難い同志(=Comrade)です。



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