2022/12/22

消えゆくもの

 大先達! 葛原勾当(くずはら こうとう)さんのこと。

 ここまでの人生で、何千もの書を読み、何万もの物語や歴史を知った。また何千何万もの映画やテレビ放送の視聴で、様々な生命の姿やドラマや世界の様子などを見せてもらった。それらは心に感動を与えてくれた。

 ところが年齢を重ねた今、その感動の記憶の半数は消えてしまったようだ。「しょうがないさ我が能力の限界なんだもの。」でも半分にしろ感動は残っているのだから、悔いなど無い。

 さてそんな感動を与えてもらった中の一つに、太宰治の「御伽草紙」と題した短編集(妻の蔵書)の中に、「盲人独笑」の一編を読んで、そこに(おりがみ)が出て来たので、もう小躍りして、岡村昌夫(Mr.Okamura Masao)先生にそんな発見の自慢をするために、早速電話を入れた。それは今から10年程前のことです。

『は、は、は。さすがは笠原さん、あのね、太宰の作品は全部読んだと言っていた前川さんからは未だにそれを聞かないんですよ。(なんだ、岡村先生知っていたのか!)』

 そんな話の後、岡村先生はこの葛原勾当さんについての、専門誌へ発表の論文の抜き刷りを送ってくださった。既にそんなご活動をなさっていたんだ! なお岡村先生は日本折紙協会の専務理事をなさっていた佐野康博氏と共に、広島県福山市に在る萱茶山記念館に葛原勾当さんの折り遺された遺品のおりがみの実際を調べに行かれたとのこと。そもそもは、この記念館から日本折紙協会にこの情報がもたらされてのこととか。(私はまったく偶然の発見です!)

 この葛原勾当さんのことは、葛原さんご自身が、16歳から71歳の享年まで自作の活字!にて書き綴った「葛原勾当日記」というのが没後に遺族の手にて出版されて評判だったことから、この日記の一部をほとんどそのままで、太宰の手で(まえがき)(あとがき)を付して作品化されたようだ。因みに井伏鱒二も取り上げたと岡村論文にあったが、私は未見だ。

 なお勾当さんは、文化9年(1812)に現在の広島県福山市に生まれた人。明治19年(1882)が享年。

 さてこの方のお名前の(勾当)とは盲人の社会の階級名で、(座頭)と(検校)の中間で、検校という最高位になろうと思えば充分の資格はあったらしいが、若い女性のお弟子さんたちに琴や三味線の指導をし、上達した子には(おりがみ)をプレゼントしていたとある。検校など堅苦しい生活より若い女性との気楽な毎日がいい! 太宰が「盲人独笑」なんていう題名を付けたのは、そんな情景を想像してのことか。加えるに和歌を詠み、筝曲の作曲をもされたそうな。ともかく素晴らしい才人だったようだ。

 なおそのおりがみ資料だが、「葛原勾当生誕200年記念 勾当さんのおりがみ 葛原文化保存会会長 重政義宣発行 岡村昌夫監修 日本折紙協会 監修制作 2010年刊ーなんとここまで行っていたのか!」。岡村先生から送って頂いた上記の小冊子で拝見した。

 全部で26点の作品が収録されているが、3分の1ほどは伝承として私も知ってるものだが、他は初見のもので驚いた。因みに「玉手箱」が(1:5の長方形の紙)の6枚の組み合わせで作られており、本多功(Mr.Honda Isao)さんの昭和初期の解説書にての紹介のずっと前のことだから驚きだった。さらに7種ある「連鶴」の3種は初見のもの! どうやら勾当さんは「欄間図式」や「千羽鶴折形」も、どんな形でかは分からぬが、多分ご存知だったようだ。

 3歳のとき疱瘡で失明されたとのことなのに、もしこれらの目開きでも難しいおりがみ資料を解読され復元されていたとしたら、そりゃすごい!

 岡村論文では、『吉澤章(Mr.Yoshizawa Akira)さんも、世界に著名な盲目の折紙作家加瀬三郎(Mr.Kase Saburou)氏も、この斯界の大先達を知らなかった様子で驚ろかされた。』と。

 私の思うに内山先生父子もご存知なかったように思えるし、本多さんも多分ご存知なかったのではと思う。1:5の長方形からの「玉手箱」の件は、昭和初期、既に伝承となっていたのではなかろうか? 私が意気揚々として岡村先生に電話した理由がそれですよ。

 しかし哀しいかな、この感動の発見についての関わりは、世界中で出版不況が蔓延している最中のこととて、私には紹介する機会はないことだった。この大先達のことが、消えゆくものにならないことを祈るばりだ。岡村論文など大切な資料は、日本折紙協会に保存されている筈だ。頼みます。

















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